病院のご案内

日本赤十字社の事業

東日本大震災活動報告会-1班

石森正敏 甲状腺・糖尿病科部長

3月11日14:46分に三陸沖を震源とする震度7、マグニチュード9の地震がおきました。16時半ごろ外来診療中に「17時半頃に出発できるよう待機して下さい。」と連絡を受け他の先生に引継ぎをしてから、慌てて自宅に戻り支度をして病院に帰ってきました。
東名高速道路・東北自動車道が通行できないため東海北陸自動車道を走り富山へ入り高山赤十字病院と合流しました。富山→新潟→山県→秋田→岩手と日本海側を走り新潟のあたりからすごく雪が積もっていました。
岩手に入ったのが翌日の10時半頃で盛岡赤十字病院でミーティングをしました。その日は県の消防学校にある「SCU(災害救護拠点)」に派遣されました。
重症患者は一人いました。若い女性で津波に襲われ抱いていた赤ちゃんは流されてしまい、重油が混じった水をたくさん飲んでいた為、科学性肺炎をおこしていました。その他骨折などの患者さんが何名かいました。花巻空港が使用可能となってからは現地で救出後、直接そこから東京や周辺の都市部などへ患者を搬送するようになった為、その後は紫波町の避難所の巡回診療をしました。その日は寒い中盛岡赤十字病院にて皆でごろ寝をしました。
次の日は朝4時に起きてミーティングをし、陸前高田市へ向かいました。壊滅的な状態の陸前高田市にある高田第一中学へ行き、前日から活動をしていた福井・秋田チームと合流、交替しました。高田第一中学は中心的な避難所で私はそこで診療にあたりました。避難所は把握しきれないほど数多くあり、藤田医師と中村・阿部看護師と久松薬剤師が巡回診療を行いました。
避難所にいる人の多くは津波の被害に遭ったため、持ち物が何もなく、慢性疾患を抱えている人も薬が無く、特に高血圧で薬を飲んでいる人が多く普段使用している薬など何を使用しているのか分からず一般的な薬を処方したかったが、応急処置の薬しか持ち合わせていなかったため薬を待っている人が約40人いた。
中には透析が必要な患者もいて困り果てていた時に自衛隊の救護班が来てくれた。その後自衛隊により対応できない患者を、盛岡赤十字病院に2時間掛け搬送してもらった。 携帯が繋がらなく連絡できたのは盛岡赤十字病院しかなかった。大船渡病院が近くにあったが電話は繋がらなかった。自衛隊の人に問い合わせたら搬送してくれることになり、もともと大船渡病院に掛かっていた患者など数名をピストン輸送してもらった。薬が必要な患者さんは病院へ頼んだ。
避難所にいる人たちは皆、精神的に参っている人が多く、家族を亡くして泣き続ける人や痴呆症の人、精神疾患がある人、腹痛や不眠症などありとあらゆる患者さんを診て出すことが出来る薬は出した。その他、家族を探しているときに、瓦礫によって怪我をした人などを診た。
辛かったことは、とにかく寒さでした。1泊目は電気も通じていなかった。電気が通ってからも窓が多少開いているため吹きさらしの中でいるようなもの。与えられた毛布はひとり一枚で畳1畳程のところで寝た。寝ているときでも常に余震があり、恐怖を感じてほとんど眠ることが出来なかった。また救護所は24時間体制なので夜間は他のチームと交代した。自分たちは4時から7時まで担当し7時から1時間休憩をして次の日の診療を迎えた。 食料をあまり準備していなかったが、向こうではほとんど手に入らず空腹状態が続いた。

藤田修平 外科医師

4人で回った。お寺が多かった。多いところには100人以上いた。とても歓迎された。
みんな血圧を測ってほしいと言われ、血圧を測ろうとすると多くの人が集まってしまい、大変だった。興奮気味なのか血圧も200を超える人もいた。
困ったのは、喘息の患者さんやてんかんの患者さんで「薬が無くなってしまった。」といわれたが、吸入の薬を少量ずつ使用した。小児てんかんの患者さんは薬が無かったので早めに病院で受診するようにと言うことしかできなかった。
一緒に巡回してナビゲータをしてくれた地元の保健師さんは、同僚が何人も亡くなったりプライベートでも大変な思いをしていた。現地で救護にあったっている人もプライベートでは大変な思いをしているんだなと思いました。

看護師

巡回していて紙オムツ(子供用・大人用)、生理用ナプキン、市販の風邪薬、マスク等を持っていないかとよく尋ねられた 病院に掛かるように話しても、ガソリンが無く行くことが出来ない。
印象に残っているのはカルテに住所を書いてもらうときに「住所は有るのに家は無いんだよね。」と数人に言われ、この辛い現実を思い知らされました。
被災地の情報を知らされないまま被災地に入った為、陸前高田市の被災状況やそれどころか地理的な事も分からないまま救護活動をしていた。
自宅に帰ってから、繰り返し流されるテレビのニュースなどで震災の状況を目にし、改めて陸前高田市が被災地の中でもかなり深刻な状況であることを知りました。その中で奥さんを震災で亡くされた市長さんも自分の事を差し置いて被災者のため動いていたりと被災地の人々はとても大変な思いしているのだなと思いました。

看護師

私は主に石森先生と救護所にいました。いくつか苦情を受け付けることもあったが、自衛隊の人や役場の人と相談をしながらその場その場を対応してきた。
痴呆の老人やパニックに陥っている子供を面倒見てほしいと言われたことも有ったが、近所の人や役場の人が面倒を見てくれる人探してくれて、救護所は色々な人の協力を得て運営していた。
体育館には寝たきりの方が何人かいたが、その人たちのおむつ交換などの世話を見てくれる人は居るのだろうかと思い、今後はそのような介護も必要だと思いました。

看護師

私は巡回診療中心に回りました。トータルで15ヶ所程避難所を回りました。津波警報が出ていて遠くの避難所へは行くことが出来ない所もあった。
小さい避難所では高齢の人が多かったのが印象的でした。
話を聞くと「何もかも流された為、薬がない」「命からがら何とか逃げてきた」「家が無くなってしまった」「戦争を思い起こす震災だ」という人がいました。
なんと言葉を掛ければ良いのか分からなかったが、まずはその人たちのそばに寄り添って話を聞き「大丈夫だよ。」と声をかけることで被災者の人は安心出来たのではないかと思いました。
何も出来なかったなと反省しながら帰ってきましたが、とても貴重な経験をさせてもらえた。今後も支援のほうに協力していきたい。

薬剤師

急を要した事もあり準備する時間が無かった為今回持っていった薬はマニュアルに沿った物を準備してもらった。
しかし、救急処置に使用する薬が多く、慢性疾患などに使える薬はあまり用意してなかった。救急治療的なことはなかったので使える薬があまりなかった。
被災直後なので体力はあまり落ちていなかったため、風邪薬などはあまり使用してなかった。喘息は吸入用の薬が2,3本あったがそれを兄弟で使用してもらった。高血圧などに使用する薬も必要だったが持っていなかった。
その他小児用の薬が持っていって無いため、子供の調子が悪いと言われても何も出来ずに帰ってこなければいけなかったのが辛かった。嘔吐がひどい症状の2歳の子供がいたが座薬もなかったため何もしてあげられなかった。
家に帰って子供の顔を見て自分は幸せだなとすごく感じました。

事務部

今回の被災地は東北ということで10時間くらい掛ったが、プライベートの旅行でもそんなに長い時間の車の運転をしたことがなかったので、随分フラついたりして乗っている皆さんにも怖い思いをさせたのではないかと思いました。無事帰ってこれてよかったと思いました。行き帰りの行程で2000キロ位の走行距離でした。

事務部

行きの道のりで15時間、往復で1960キロ走った。行きは秋田の一般道を通り、雪がかなり有り道が凍結して、走り精神的にも結構辛かった。やはり東北をなめていたのか防寒具の用意が足らなかったのが反省点でした。
また、途中で買えば良いと思い食料もほとんど持たずに病院を後にしたが、被災地の周辺はすでに食料不足が出ていて班員にはひもじい思いをさせてしまった。現地に行くと道路は通行止めばかりで、ナビで行きたい場所を設定しても通ることができない道がほとんどで、道案内の方の言われたとおりの道を戻るしかありませんでした。
緊急車両ですので、警察も大目に見て通してもらえることもあり不自由はあまりありませんでしたが、かなりひどい状況でした。陸前高田市へ入る寸前に、ちょうど海岸とほとんど同じ様に見える場所があるのですが、そこがもともと何だったのかわからない様な所で車両が一台やっと通れる場所を通って行きました。
二日目の巡回診療では津波警報のため通行止めで足止めになり行きたい避難所には行けず近くにある避難所に行くしかありませんでした。
そしてテレビでも物資が不足していると何度も言われていましたが、何よりもガソリンがありません。緊急車両ということでガソリンがあるガソリンスタンドで入れてもらえるのですが、電気が通っていないため給油機が使えず、みんなで順番に手動で回して給油しました。救急車とワンボックスカーの2台で行きましたが、とても燃費が悪く70Lのタンクを満タンにするのにみんなでゼーゼー言いながら回しました。
町を歩けば物資がなく、コンビニやドラッグストアーは長蛇の列が出来ていました。また停電のため信号機が点灯していない為とても危なく冷や冷やしながら走行していました。
震度3から4の余震が常にありその程度では班員の中でも話題にもならないくらいで、震度5位になると「今、揺れたかな?」というくらいに慣れてしましました。
しかし寝ている間もずっとそれは続いていましたので、揺れると恐怖感があり起きてしまい、寒いことも手伝ってほとんど寝ることが出来ない状態でした。

報告会の様子

works_kyugo03.jpg works_kyugo04.jpg

ページの先頭へ